以前パニック障害の一種、会食恐怖症にかかっていると言ったのだけど【パニック障害】人前で食べていると急に口に入れたものが飲み込めなくなる「会食恐怖」、これが全然治っていない。どころか少しずつ悪化している気さえする。
緊張感のある場所だと飲食物が喉を通らない
仕事の取引先でお茶を出されたり、会社の忘年会で食べ物を口に入れたときなんかに、急に「あら、呑み込めないゾ!」とパニックになることがある。気の合う友達と話しに夢中になって話しながらとかだったら問題なく飲み食いできるのだけど、職場の人間みたいな大して仲の良くない人だったり、仕事絡みの食事会なんかだったりすると突然ダメになる。健常な人に話しても[自分だってそういうことはあるよ!慣れだよ慣れ!]って返してくる人は多い。でも恐らくだけど、その度合いが比ではない。[そんなの誰だってある事だ]と一蹴されてしまったら何も言い返せないわけだけど、過緊張とかでもレベルが違う人がいるってことが、マトモな人にはきっと分からないだろう。そういえば電車に乗るのが苦手なパニック障害の人は電車に乗った途端に動悸がしてきて、最悪そのまま意識を失って倒れてしまうこともあるそうだ。
通路側の席じゃないと死ぬ
壁がある居酒屋や定食屋なんかだと四人くらいで座るときに壁側になることがある。そうするともう一巻の終わり。「直ぐに立てない、席を外せない」と思った瞬間に緊張感に襲われて何も喉を通らなくなる。というか口にものを入れられない状態に陥る。だから逃げられないという状況にひたすら弱いとてつもないヘタレなのかもしれない。昔はこんなこと殆どなかったから、一度意識し始めたときから症状は始まってしまったのだろうと思う。強く意識してしまうと急に難しくなることがある。歩く、息する、食べる、寝る等々……当たり前に無意識にしていることも意識した途端に急に難しいことに感じたり不思議な感覚になったりすることが誰しもあるんじゃないかな。それを拗らせると自分みたいになっちゃうんじゃないかな。
テニスのダブルスが苦手なタイプ
自分一人で責任を負える状況なら力を出せるんだけど、集団行動(チーム)で行動している場合失敗への恐れ(迷惑をかけることへの不安)が過剰になって守りな行動を取ってしまう。人に迷惑をかけることを過剰に心配するタイプではあると思う。簡単に言えば自意識過剰の完璧主義なのが問題なのだと分かる。人に迷惑をかけることはいけないことで、自分は常に完璧な存在でいたいとどこかで思っている。迷惑をかけたくないというのは[褒められたい]の裏返し。ということは根本に根付く自己肯定感の低さとか、自分に自信がないことが問題なのかもしれない。そういう潜在的な自分の性格の難点を冷静に分析することが症状克服への鍵だとは思うのだけど、これが非常に難しい。自分の一番弱いところを自分で探しに行くことはとても怖いことでもある。
とりあえずこの症状に関しては、なにかと失敗の想像が膨らんでパニックになっているのだと思う。「取引先で嘔吐でもしたらおしまいだ」という緊張感が、飲み物を口に入れて飲み込むといういつもなら無意識でやっていることさえ難しくしてしまい、途端に飲み込み方を忘れるみたいな感じ。パニック障害ってわりと私みたいな失敗への恐れから来ることが多いんじゃないかな。あとは過去にした失敗(トラウマ)を引きずり続けてしまっているとか。
薬を飲んでも効果ゼロ(正直よかった)
試しに心療内科に行ってそれを伝えてみた。薬を処方されたが全く効果はなかった。医者からは「そういう現場に行く前に飲めば効果あるはず、副作用はボーッとすることだね」と言われて、暫く試しに飲んでいたことがあるが、飲んだところで緊張は1ミリもとけないしボーッともしていると思うこともなかった。たくさん飲めば効果は得られたのかもしれないけど、仕事中にボーッとしてしまったら、それはそれでかなりの問題である。もちろん客先などで出されたお茶やお菓子に一切口をつけない姿勢でいればいいのかもしれないが、流石に多少は頂いた方が好印象にはなるだろう。と、そういう考えが余計に自分を追い詰める。
でもやっぱり、薬への依存が1番こわいことなんじゃないかと思う。
薬が効かなかったのは正直良かったことだ。仮に効いたと実感できてしまったら、今後事あるごとに頼ることになる。下手したら一生使い続けることになっていたんじゃないかと思う。一度依存してしまったものはそうそう止められるもんじゃない。違法薬物の再犯率は7割だと言うが、医者から処方される薬だって、合法であるだけで依存性は必ずあるはずだ。いちばん怖いのは何かから逃れるために何かに依存してしまうことなのだろう。そしてその副作用をカバーするために他の何かに頼るのだ。
自力で克服は無理。自然に任せる。
どうせネットで調べたことを実践したところで、心理学の本を読んだところで、自分は治らないタイプだなと思った。時間が(場馴れが)解決するのを待つしかないのだ。若い時は色んなことに敏感だし興味も湧く。歳を取ればとるほど意欲や興味が無くなる。自意識がだんだん小さくなっていく。他人からどう思われているかを徐々に意識しなくなってくる。本来はそこからが自分の人生、他人の価値観に振り回されることなく、自分の好きな道を選べる境涯。悟りとは、私たちが考えているよりも単純なものなのかもしれない。即ち自意識や好奇心が薄れていくことが悟りへの道なのではないか。悟りとは「無」とも言う。生まれた時からどうせ無に向かっている我々生物は、悟りの境地へ行くことが元々約束されているのではないか。
命に限りがあるように、喜びにも悲しみにも限りがある。そんな世界に生まれたことはきっと幸運では無いだろうか。
何を言っているんだ?
考えすぎるとこうなる。生きる意味とか生とか死とか、考えても答えが出ないことを考え出すと結局傍から見てオカシイやつになるのが関の山だ。まぁ気楽に行こう。気楽にね。
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