1 | Scrambling Rock’n’Roll |
2 | Bow! |
3 | Scrap Alley |
4 | ダンスホール |
5 | 卒業 |
6 | 存在 |
7 | 坂の下に見えたあの街に |
8 | 群衆の中の猫 |
9 | Teenage Blue |
10 | シェリー |
年が変わって2023年になったと思ったら、あっという間に3月も下旬。同じ毎日をただこなすだけになってしまうと、こうも時間があっという間に過ぎていくのかと感じている。
そして今は卒業シーズン。
また地元の桜は満開を迎えて”しまった”。もう何年も前から桜が咲きだすと強烈に焦りを感じる。「また一年経ってしまった」「まだ1つもうだつが上がっていない」。
焦りだけが募って自分で自分を苦しめる毎日だ。
一向に自分の気持ちには余裕ができない中、いつも綺麗に咲いてあっという間に散っていく、潔く美しい命の輝きを見るたびに自分も精一杯生きねばと勇気をもらう。
尾崎豊「卒業(GRADUATION)」
この歌は1985年3月に「回帰線」というアルバムで登場。一応その2ヶ月前に、先行してシングル版が発売されていた。すでにおよそ40年前の歌というのが驚きで、自分が生まれていない頃の歌だというのに特段古臭い感じはしない。
当時はその歌詞の過激な部分に影響されて、窓ガラスが割られる事件も多発したそうだ。もし仮に現代にこういう歌が出てきても、歌詞に感化されて校舎の窓を割ったりする学生は殆どいないんじゃないかと思う。それだけ当時(80年代)の若者はやるせなさや何処かにぶつけたい気持ち強く持っていて、感化されればすぐに行動に移してしまう危うさも持っていた。危険だけどとっても良いことだと思う。
現代の若者はそういう感情を抑圧する術を、早いうちに身につけてしまうのではないか。それも良いことだとも言えるけど、自分の気持ちを抑圧することを早いうちから覚えすぎると、確実に心の内側に溜まっているそれらは、ずっと後になってから厄介な形で吹き出してしまうような気もする。
そんなふうに変わってきているのも、日本の教育に少なからず問題があるようにも思える。
日本の教育とインドの教育
日本では、「人様に迷惑をかけず、はみ出さずに生きなさい」という教育をされる。よく日本の教育と対比されるけれど、インドでは「人には迷惑をかけてしまうものだから、人を許せる心をもちなさい」と教育されるそうだ。2つの教育、どちらが自然かと言えば当然インドの教育で、基本的に何かしらの迷惑をかけずには人と交流は生まれないし、相手を深く理解することもない。「触らぬ神に祟りなし」なんて言うけれど、それが過ぎる日本人は他人と関わるのを避けすぎて、新しい出会いや発見を自ら無くしてしまっている。これは勿体無いことだと思う。
「いっしょに窓ガラス割ろうぜベイベー」なんて言っていない
当たり前だけど、そもそもこの歌の伝えたいことは「社会や大人にムカムカするから一緒に校舎の窓ガラス割って回ろうぜ」とういう事ではない。そんなことをしたところで結局何も変わらなかった、自由になれはしなかったということを唄っている。
言っていることは「15の夜」の『盗んだバイクで走り出して、夜空を見たら自由になれた気がした』という歌詞と同じ。何をしても「気がした」だけで、本当の自由や大切なものは別にあるという事を教えてくれている。『自分らは馬鹿だったから遠回りしたけど、君たちはもっと賢く生きるんだよ』と、反面教師的に彼は訴えている。溜まった鬱憤を晴らす理由として、この歌の都合の良いところだけを抜き取ってしまうのは愚かなことで無論、彼の本意ではないのである。
でもやっぱり精神的に未熟なうちは、共感できるところだけを抽出して間違った解釈をしてしまうもの。これは仕方ないこととも言えるから発信する側、作品を作る側にも責任は伴ってくるものだとは感じる。
卒業ソングとしては定番だけど合唱曲にはならない歌
テレビの卒業ソング特集なんかで、1位ではないけど今でも必ずランキング上位に入ってる尾崎豊の「卒業」。
真面目な優等生には理解できないちょっと過激な歌詞で、昨今好まれるストレートな励ましソングでもないから好みが分かれるはずなのに、いまだに有名な卒業ソングではあり続けているのがすごい。
人気アーティストの卒業ソングの多くは、大体合唱曲としても唄われている。
- ロミオレメンの3月9日
- 海援隊の「贈る言葉」
- いきものがかりの「YELL」
- ゆずの「栄光の架橋」
- 森山直太朗の「さくら」
などなど
でも卒業ソングとしては定番なのに、尾崎の「卒業」が合唱で歌われているのは1度も聞いたことがない。
たしかに卒業式で「行儀よーく真面目なんてできやしなかったー♪夜の校舎窓ガラス壊して回った~♪」なんて生徒全員で歌っているのを想像したらとてもシュールではある。
あと何度自分を卒業すれば、本当の自分に会えるだろう
まぁ合唱で歌われないのは仕方ないとして
この歌で考えさせられる大事な部分は、最後の4分の1の歌詞。
卒業して 一体何解ると言うのか
想い出のほかに 何が残るというのか
人は誰も縛られた か弱き子羊ならば
先生あなたは か弱き大人の代弁者なのか
俺たちの怒り どこへ向かうべきなのか
これからは 何が俺を縛り付けるだろう
あと何度自分自身 卒業すれば
本当の自分に たどりつけるだろう oh oh
仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この支配からの 卒業
戦いからの 卒業
卒業/尾崎豊
人生という大きなくくりでの、人としてたどり着くべき境地への予感を歌っているようでもある。
この頃からすでに「本当の自分」という言い回しをしているが、この言葉は彼の歌には何度か登場している。「卒業」では(あと何度自分を卒業すれば本当の自分にたどり着けるか)、「路上のルール」では(本当の自分を探す度に、調和の中でこんがらがってる)と言っています。それから晩年の歌、「永遠の胸」では(本当の自分の姿を失いそうな時には他者にとって自分はボヤけて見えている)と言っています。色々を吸収して新しい自分を創り出す。でもまた大きな壁に打ちのめされて粉々になる。を繰り返して自分という存在の認識がアップデートされていく。
尾崎は十代から二十代の間に本当の自分を見つけ出しているんですよね。人生の後半ではそれを見失わないように守り続けようとしている。それにしても彼の26年という人生は、一般人のおよそ60年くらいに相当しているなと感じてしまいます。
日本人の美徳とされる「細く長く」とは逆をゆく、「太く短い」人生だったのだなと改めて思えます。
ストレートな励ましソングだけが流行るこの時代に
今の若者たちは、昔の若者に比べて冷めているという説がある。実際のところは他人の反応によって自分が傷つくのを恐れすぎて、行動できずに大人になっても自分の殻に閉じこもり続けるようになってしまったのが現代の若者ではないかと、自分や周りを見ていると思う。
冷めたように見せることで自分が傷つくのを回避する。興味がないフリをすることで自分の本音を隠し続ける。昔だって可能ならそうしたい人は多々いたはずなんだけど、残念ながらその手段がなかった。今はいろんな娯楽があり、様々な価値観が許されるようになってきたので、恐いことや嫌なことから逃げるのが容易になった。本当の自分の欲求に見て見ぬふりをすることが出来るようになった。
良くも悪くも。そして今、若者たちは何故かストレートでわかりやすい励ましソングを求めている。
難解とか、解釈が哲学的なものは避けて、「今の弱い自分の気持ちを歌にして共感させてほしい」という需要が高まっているように感じる。こういう傾向は「何かを自分ひとりで考えて答えを出す」という一番大事なところからどんどん人を遠ざけさせるような気がする。
最新の曲はテンポもいいし、楽器の音の合成とか色々と極まっている部分がある。ツアーを抱えた中で常に声を一定に保てるように喉の不調や生活習慣には最新の注意を払っていることだと思われる。
自分が傷付きそうなことはしない、面倒くさそうな人とは関わらない。そんなことをしているうちに、自分からぶつかって自分の頭で考えることを知らず知らずのうちにしなくなってしまう。他人の敷いたレールに、気づけば完全に乗ってしまっている。傷つくことを恐れてら必死で守ってきた心は綺麗だけど、いつまでも薄くて脆いままなのである。
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