追記(2023/04/02)
息子の尾崎裕哉さんが、1992年当時「放熱への証」発売にあたって尾崎豊へのインタビューが載った雑誌について紹介されていました。
以下は全て尾崎豊の言葉です(朗読したのは息子だけど)。
この歌の中に答えは育むものだという言葉があるんだけれど、占って出てきた答えはいつも必ずしも全てじゃなくて、本当の答えというのは何年後かにしかわからないことが多い。
ロックンロールニューズメーカー 1992年6月号 「放熱への証」発売にあたっての尾崎豊へのインタビューより
しかも自分の受け止め方によって変わってくるという。だから自分が裏切られたとしても、なぜその人が裏切ったのかわかってくると、自分ももしかしたら同じことをしたかもしれないな とかね
行く末には、そういう答えが待っていることを認識した時に、育むことで全てのことが理解でき、許すことも与えることも怒ることも喜ぶこともできるってのが、この歌の言いたいことなんだよね
尾崎豊がちゃんと「優しい陽射し」の歌詞の意味についてコメントしているを全く知りませんでした。尾崎ファンではありながら、オタクみたいに細かな情報を調べ尽くすタイプでもない面倒臭がりなもので…
本人が明言されているので、基本的には歌詞の意味は上記の内容が正しいということになります。ここから下は何も知らなかった頃の、私個人の感想になります。
追記おわり
最後のアルバム「放熱への証」
1 | 汚れた絆 |
2 | 自由への扉 |
3 | Get it down |
4 | 優しい陽射し |
5 | 贖罪 |
6 | ふたつの心 |
7 | 原色の孤独 |
8 | 太陽の瞳 |
9 | Monday morning |
10 | 闇の告白 |
11 | Mama,say good-bye |
「優しい陽射し」が収録されている【放熱への証】というアルバムが、尾崎豊の最後の作品になっています。全71曲しかない尾崎の、最後の11曲がここに収録されています。前作の「誕生」というアルバムに比べて、全曲を通して暗い印象のある楽曲群です。
このアルバムの発売を待たずして彼は亡くなっているので、「優しい陽射し」を含め、「闇の告白」や「ふたつの心」など、ライブで歌う姿を観たかった曲は多数ありますがそれは叶わず。特にものすごい負のエネルギーを感じる「闇の告白」は、歌っている姿を映像でも観てみたかったと思います。声だけで伝わってくる絶望的な雰囲気と、破滅しそうな緊張感。これを映像で見たらどんな感じだったのかは気になります。
ただ彼の歌を死ぬほど聴いて、歌っている姿を映像でもたくさん見ていると、「闇の告白」にしても「優しい陽射し」にしても、どのような表情と声で歌うのか、なんとなく想像できるもの。晩年は容姿もかなり窶れていましたが、そんな彼が懸命に何かを伝えようと歌っている姿を想像することはできます。晩年のバースツアーの最初、横浜アリーナでの容姿は僅か25歳なのに、私にはまるでおじいちゃんのようにすらみえます。顔が老けているっていうより、表情など醸し出す雰囲気がどこか老人っぽいのです。それだけ駆け足で生きて、BIRTHの時はもう身体的にも精神的にも疲れていたのだろうなと感じます。
なにも悲しまないと暮らしを彩れば、きっといつか答えは育むものだと気付く
「なにも悲しまないと暮らしを彩れば、きっといつか答えは育むものだと気付く」
このフレーズは印象的で、この歌を語る方はみなこの歌詞についてのことを解釈されていますね。
「何も悲しまないと暮らしを彩れば」、どんなことが起きても悲しんだりせず素直に受け入れることができる状態、つまり悟りに近い精神状態を指しているのかなと思います。
晩年の尾崎の歌詞にはどこか人生への「諦め」を感じさせるところがあります。仏教では【諦め】というのは悪い意味ではなく、元々は『明らめ』と書き、物事が達成できない理由を、世の道理を知り明らかにすることで納得して断念するということだそう。自らの夢や野望など所詮有限のものであり、限りなく広がり無限である宇宙にとってはさほど意味のあることではない。大切なのは置かれた現状を受け入れ、その中でどういう態度であるべきか。そういう境地を語っているのかもしれません。
「答えを育む」というのは、もちろん(愛は育むものである)という意味もあると思うけれど、他者が出した答えに同調するのではなく自分で行い自分で考え抜き、それによって得られたもの(すなわちプロセス)を大切にするということではないでしょうか。
「昨今は他人の出した答えだけがあちこちに散らばっていて、若者はその答えだけを収集してわかった気になってしまいがちではないか」という話をOzaki 2000回聴いた人生のバイブル曲、「永遠の胸」(えいえんのむね)。で書きました。尾崎豊はそういった「答え」よりも「自分で考えること」、「自分なりの答えを出すまでの過程」を重視していたように思います。
もちろん結果(答え)というのは大事ですが、結果にフォーカスしすぎると失敗を恐れて逆に何も行動できなくなります。既に結果を出している人を過剰に評価してしまったり、自身が結果を出せないで終わることへの恐れが生まれ、自信のあること以外に対してやらない理由を見つけに行く癖がついてしまいます。
どんなことでも自分がやりたいと思ったら自らやってみること。他人の答えだけに納得するのではなく、自分でやってみて自分なりの答えを見つけ出すこと。その過程の中で自分自身が得られるものが重要であると、彼は言っているように思います。
生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。
遺作「放熱への証」のキャッチコピーでもある、この言葉は彼の墓石にも刻まれています。
尾崎豊のお墓、狭山湖畔霊園
2022/7/4 、そして翌年の2023/5/2。実際に行ってみました。埼玉県所沢市の、とってものどかな場所にあります。
告白というとキリスト教を連想しますね。「日々を告白」というのをそのまま受け止めると「自分の良い行いや悪い行いを内省しながら生きること」に思えます。
尾崎豊は「仏界に至るは声聞、縁覚からという言葉が急に頭に浮かんだ」と述べていたり、仏教やその他の宗教も学んでいそうだけれど、晩年はキリスト教寄りの考えだったように見えます。「贖罪」という題名の曲があったり、私の一番好きな「永遠の胸」の歌詞にも「裁くもの」、「与えてくれるもの」というどこか【神様的なもの】が出てきています。だから告白というのも「神様の赦しを乞う」という観念からきているように思えます。
この「優しい陽射し」という曲は最近になって『良い曲だな』と思うようになりました。この曲はテンポもゆっくりなので、その他の激しいアップテンポな曲に飲まれて良さに気付かなかった。遺作であるこのアルバム「放熱への証」は、歌詞がかなり暗かったり、他者や自分への憎しみや絶望が感じられる曲が多いです。そんな中でこの曲はとても優しく清らかな雰囲気があり、聴く者の気持ちを穏やかにしてくれます。
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