人生のバイブルな歌、尾崎豊「永遠の胸」の歌詞の意味を解釈する。
まぁあくまで個人的にですからね、解釈は人それぞれですよ。
さまざまな年代の邦楽を聴いてきた中で、特にメロディに「子守唄感」のようなものを覚えて、7年以上聴き続けている歌。
2000回以上聴いても毎回いろんな感情が込み上げてくる。この歌詞とどこかお経のような、聴き心地の良いメロディは現在のところ人生のバイブルであり、人格形成の一助になっている気さえします。
まず、「えいえんのむね」という、ちょっとかわいい?(ような気がする)タイトル
まずこの曲の題名「永遠の胸(えいえんのむね)」。私はこの「えいえんのむね」というタイトルの語感がすごく好きなのです。
英題は「Eternal Heart(エターナル・ハート)」。
これをそのままタイトルにしてもカッコいいですが、歌詞が哲学的で少しダークなのを考えると、タイトルだけ格好つきすぎで浮いてしまう気がします。別に浮きはしませんけど…
日本語なら同じ字で「永遠の胸(とわのむね)」にしたり、「永遠の心(えいえんのこころ)」にした方が日本人には言葉としてはしっくりくるような気がしないでもないです。
「えいえんのむね」。
この、「えいえんのむね」。
何回も口に出すとなんだかちょっとおかしいような、可愛いような、愛おしいような気分になります。私の感性がどうかしているのだと思います。
この曲が収録されているアルバムのタイトルでもある「誕生」という曲と、この「永遠の胸」のどっちをアルバムのタイトルにしようかと本人が悩んだという話があります。ですのでこの曲の題名もきっとかなり考えて付けられたはずです。
いずれにしても最初は少し引っ掛かるようで、慣れると何度も口にしてしまいたくなる絶妙な題名は、私がこの曲を7年以上聴き続けても飽きない一つの理由かもしれないと感じます。題名は大事ですね。
1番の出だしからサビまで。自分なりの解釈をならべています。
一人きりの寂しさの意味を抱きしめて暮らし続ける日々よ 見つかるだろうか孤独を背負いながら生きていく 心汚れなき証示す道しるべが
永遠の胸/尾崎豊
歌詞は「一人きりの寂しさ」という言葉からはじまります。人生というのは基本的に孤独との戦いだということを尾崎は10代の頃から何度も何度もいろんな歌で歌っていますし、やはり彼の人生の1つの答え(境地)であろうこの歌もやはり「孤独」がテーマだということが伺えます。
孤独は自分の行動を振り返る機会を与え、反省をさせてくれます。誰しも夜眠る前にその日の自分の行いを悔やむ時があると思います。自分一人では決して生きられず、常に誰かの助けによって支えられて生きている。そんな当たり前のことに気づくのは、大抵ひとりの時。「また人を傷つけることを言ってしまった やってしまった これからは皆にちゃんと感謝をして生きよう」。そんなことを考えるのも夜眠る前にひとりでいる時が多いですね。
そしてそういう日常的なものとは別に「どんな時でも自分はひとりだ、同じ世界を生きているようでも皆別々の世界で生きている」という、もっと深い領域での強い孤独を感じる時期があります。こういう時期のどうしようもなく苛立ったり虚しくもなる「孤独」を、苦しみながらも感じ続けることで、何かが得られるような気がする、得られるものがあって欲しいという願いも感じられます。
孤独の自分を意識し、苦しみに苛まれているということそのものが即ち「心が清く正しいものである証」だと思いたいということかもしれません。
いろいろな人との出逢いがあり 心通わせて戸惑いながら 本当の自分の姿を失いそうな時 君の中の僕だけがぼやけて見える ありのままの姿はとてもちっぽけすぎて 心が凍りつく時君をまた見失ってしまうから
永遠の胸/尾崎豊
色々な場所で色々な人と出会い、言葉を交わし、親しくなればなるほどに人との隔たりを感じていく。
とても大切だと思えるひとに巡り会えたものの、自分に余裕がなくなればその人を傷つけることをしてしまうし口にしてしまう。
自分の相手への思いやりは本心か。それとも嫌われないためのご機嫌取りか。結局は相手ではなく自分のための振る舞いかもしれない。でも相手には無条件の愛を求めてしまう。
身勝手な自分の心に葛藤を感じる時、相手に映るのはどんな自分だろうか。
人はただ 悲しみの意味を 探し出すために生まれてきたというのか 確かめたい 偽りと真実を裁くものがあるなら 僕は君の面影を強く抱えて いつしかたどり着くその答えを心安らかに探し続けても良い いつまでも
永遠の胸/尾崎豊
人間というのは結局、孤独や後悔という【悲しみ】を知るために生まれてきたのだろうか。
信じた人に裏切られ、恨んだり憎んだりして、そんな自分に罪悪感をも覚える。
「真実を求めながらも結局は自分も他人に嘘をついている。裏切り裏切られ、そしていつかは後悔して自分を責める」。
というのがもはや【人生】なのではないかという一つの諦め(明らめ)の気持ちも芽生える。
それでもどうしても、人の心に宿る真のやさしい心、そして利害関係のない無償の愛を、諦めずに探し求めたいという気持ちは捨てきれない。
「人はただ、悲しみの意味を探し出すために生まれてきたというのか」
どんな人でもどこかの段階で、大体みんなこんなことを感じるのもしれません。ただ尾崎は早い。感じる年齢が早い。ようするにものすごく早熟だったということ。
それは早逝が決まっていたことを表しているような気もしてしまいます。
これが2番のサビでは「今はただ、幸せの意味を守り続けるように君を抱きしめていたい」へと変わります。いろいろなことを少しずつ諦めながらも、それでも前向きに気持ちが変化していく様子が、悲しみと失望を「希望」へ昇華させていく尾崎の執念を感じさせます。
後半のかたり「断崖の絶壁に立つように〜」
8分弱もあるこの曲。後半にはチラッと語りが入ります。間奏も少なくサビがどこなのかわからない(ずっと熱唱しているので曲中のメリハリは少ない)中で、この語りは良いアクセントになっていると思います。セリフ単体で見ると少しナルシシズムを感じますが、当時の彼の状況を推測すると(第三者の見れる情報のどこまでが真実かによりますが)、この言葉の中にはさまざまな感情が込められているようにも感じられます。それは「怯え・怒り・虚しさ・そしてほんの僅かな希望」にも感じます。
そして語りから「なぜ 生まれてきたの」と思いきり叫ぶまでの、少しずつ盛り上がるこのシーンは圧巻です。どこか宇宙というか、スケールの大きい何かを感じる場面です。
生まれた意味という哲学的で難解な問いを、彼は本気でなにかに向かって全身全霊で叫んでいます。
どんな男でも年頃になれば一度は考える「生まれてきた意味」、「生きている意味」。どうせ答えは出ないのだけれど、そういうものを追って答えを求めてしまうのが男の良い意味でのバカさなのかもしれません。生まれた意味や生きる意味。人生において、そういうことを考える期間は重要だと思います。
大量の情報が共有できる今の世の中では、「他人が出した答え」が、あちらこちらに散らばっています。今の若者はその答えだけを収集して、自分や他人、色々なものごとを知った気になってしまいがち。「効率が大事」というカッコだけの言葉で踊らせて、虚像しか掴ませていないのにまるで全てを知った気にさせてしまう、頭のいい大人たちのやり方もどうかとは思います。
本当に大事なのは自分なりの答えを導き出す過程であり、その過程の中にそれからの己の人生で糧になる要素が沢山含まれているのだと今は感じます。
答えなど出せないものに、どうにか答えを見出そうと悩むこと。そうやって悩んでもがいた体験が自身を成長させ、魅力のある人間にさせるのだと感じます。
僕はいつでもここにいるから
最後の歌詞(セリフ)。
「僕はいつでもここにいるから 涙溢れて何も見えなくても」 というのはファンの心の中にいつも尾崎豊が居てくれている。そんなふうにとれます。
BIRTHツアーのライブでは歌詞の『涙溢れて何も見えなくても』と『僕はいつでもここにいるから』の先頭に『君が』と『ずっと』が加わっています。
「僕はいつでもここにいるから『君が』涙溢れて何も見えなくても『ずっと』僕はいつでもここにいるから」
「僕」というのは聴いている人ひとりひとり自分自身でもあり、その自分自身が生きてきた中で小さくても少なくても手に入れてきた糧のことで、その糧がこれから自分自身、そしてそれから紡ぐ命を支えていってくれるということだと解釈しています。
悲しみに打ちのめされ涙を流し、何も見えなくなってしまっても自分自身がこれまで出会ってきた人の言葉や経験、自分自身の心の声を聞く事で再び己を取り戻しどうにか前に進むことができるかもしれない。
ふと立ち止まって振り返れば、とぼとぼと歩いてきた足跡は確かに存在していている。いろんな所でつまづきながらも今この瞬間まで歩みを止めずになんとか進んでこれたということ。それは自信となり希望となり、とりあえずもう一歩だけでも踏み出そうと思える力を、少ない文言で彼は伝えようとしていたような気がします。
「絶望と失望を、希望に昇華させる尾崎の執念」と書きました。ただ、「偽りなき愛を信じたい」とか「生きてゆく全てを分け合いたい」と歌っているのは、尾崎豊自身がそう云うものを信じられない、分け合えないとどこかで思っていたからこそだと、晩年の尾崎豊を見ていた見城さんという人が話されていたと記憶しています。
「本当の愛なんて存在しないのではないか」、「人と人とは永遠にわかり合えないものなのかもしれない」、そんなふうに感じていたからこそ「いや、あって欲しい」「なくては困る」という気持ちを詩に載せて歌っていたのだと。全てに疑心暗鬼になり、大勢に囲まれながらも深い孤独の中にいた彼が、なんとか心の内側に持ち続けていた小さな希望が具現化されているのがこの曲のような気もします。
「ルックス、歌唱」共にベストテイクは郡山
「永遠の胸」を歌っている尾崎を映像で観れるものがいくつかあると思いますが、個人的にルックス、歌唱力ともに神がかっているのがバースツアー郡山でのライブです。いつもの尾崎らしいナチュラルな髪型に、ツアー初期は少しやつれていた顔もいくらか健康的に戻っていて、声もよく出ています。この会場は狭めだったのもあり、尾崎自身がリラックスして臨めていたと何かの資料で拝見しました。テロンとした黒い柄シャツも、少し不良ライクな当時の彼によく似合っています。
CMがカッコ良すぎる
1990年にCMも放送されていたみたいで。この頃は割とやつれてきて見た目も老けていたイメージがあったのですが、20歳の東京ドームを思い出させるようなルックスと、ZARDの坂井泉水さんの様な薄幸な感じも相まって神々しく見えます。結局最期まで死ぬほどカッコよかったんだなと改めて思ってしまいました。小並感になってしまいますが(笑)
26歳で逝去した尾崎。それは太く短い人生。
尾崎は26歳で早世しています。今の平均寿命に比べたら3分の1かそれよりも短い人生。でも彼は亡くなる数年前から遠くない「自分の死」を意識していたように見えますし、晩年の曲の歌詞やLIVE(バースツアー)での彼の雰囲気からも、どこか達観と自身の死の予感が感じられます。まぁこうやって後からならいくらでも言えてしまうのですが。
私は、人の一生の中で得られるもの(得るべきものは)皆同じで、それを短期間で得るか長期間で得るかの違いのように思っています。殆どの人の若いうちは色々と未熟で経験不足なので人生の答えを出すということはなかなか出来ない。
ですが限られた人、早熟といえるような人達は若いうちに少ない期間で、平均的な人の一生分の経験ができるのではないかと感じます。簡単に言えば細く長い人生か、太く短い人生か。尾崎豊の人生は後者であり、26年という短い人生の中身は、ものすごく濃く激しいものだったのではないかと思います。
10代の頃から物事の本質に目を向けるタイプで、同年代とはおそらく見えていた景色が違っていたであろうことは尾崎豊の死後、彼の同級生が語っていたインタビューの話などからも想像できます。
表現者として生まれるべくして生まれ、自身の「孤独・怒り・失望・希望」を歌に変え、没後それが永遠に人の胸に受け継がれる。
その生き様はこれからも沢山の人々に共感と勇気を与え続けてくれるものだと思います。
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