尾崎豊の名曲「僕が僕であるために」。何が正解で、何が間違いかに気づくまで、敗北することは許されないと彼は説いた。そのサビの歌詞は非常に難解なようで、実は単純なものであるかもしれない。いや尾崎は確かちゃんと、どんなテーマでこの歌を作ったか言ってた気がするけどそれは考慮しない。一人ひとり受け取り方が違うのが芸術、作品だと思うからだ。
知らないを知らないから知る前に死ぬ
『正しいものは何なのか それがこの胸にわかるまで』というのは、「僕たちにはまだ知らない世界がたくさんある。今の悩みは何年かしたら、わらい話になってるよ。それまでは負けたなんて思っちゃいけない」みたいな意味に、今の自分には聴こえる。十代なんて子供も子供、世の中を下手に知った気になる時分であるし、それが故に抜け出せない蟻地獄に捕まって、ついには死ぬまで出てこられなくなるやつも居る。学校でのいじめや失恋がきっかけで引きこもりになってしまうようなものがそれかもしれない。生きてれば新しい恋人と必ず会えるし、イジメだってつらすぎて死んでしまうまでいく前に何か方法があると、大人になってみれば思うものだ。若いというのは多感で情熱的で素晴らしいことだが、あらゆる意味での脆さを持っている。自分が井の中の蛙であるという自覚をする前にちょっとした挫折で「アタイの人生おしまいだ」と立ち上がることを放棄してしまうと(諦めてしまうと)、大海を見る前に井戸の中で溺れ死んでしまうかもしれない。色んなことを経験して、人は強くなっていく。見聞きしただけで経験した気になって自分の可能性を自ら潰してゆくのが今のワカモノ。無知はワルモノ。
知らないということを知るべし。尾崎が言いたかったのはそういうことではないだろうか。「勝てよ」というより「まだ負けたって勘違いするには若すぎる」ってことかもしれない。「正しいもの」っていうのはある程度の年になって身についてくるいわゆる「大人の価値観」。常識とか、ある意味人生がつまらなくなる現実的なモノの捉え方じゃなかろうか。例えば小学生は天気予報で雪の予報を聞けば大喜びするけど、大人はアレヤコレヤと現実的に考えて難しい顔をする。そういえば子供の頃そんな親になんだか嫌悪感というか「なんで雪なのに楽しそーにしないんだよ#」とイライラしたのを思い出した。大人の現実的な考え方って子供からすると「なんでこんなに面白いことが起こってるのに楽しくないんだろう」と意味がわからないのだ。でもそこがウィークポイントにもなり得る。
そのへん(つまらない現実主義)が育ってくると過去を振り返ったときに「あの頃は若無鉄砲だったなー」、「もっとバカやっときゃよかったなー」と悔いるもの。その良質な後悔を感じる前に自滅してしまう可能性を孕んでいるのが若者という存在たち。自分の生きているまだ小さい世界での常識に固着してしまうと、そこが危険な場所であった場合に他所と比較ができずに自滅してしまう。
ときに、下には下がいることに気づくことが大事だったりする。。人は自分より下なものを見ると安心する。そして何か施したくなる。下を見て安心するのは畜生の魂だが、施したくなる気持ちには単純な善がある。それが悟りへの第一歩なのだ。やがて下を見ずとも困っている人をただ助けたいと思うようになる。自分が世界で一番不幸だと、世界とのつながりを絶ってしまえば、孤独という悪魔と永遠に手を繋いで歩くことになる。孤独は時に人を成長させるが、拗らせれば人を死に追いやるのだ。
いろいろな人を知り、様々な人生を見聞きすれば、自分というちっぽけな存在も、たしかに地球を構成する1つの細胞であるということを感じる。地球という大きな生命体の、1つのパーツであるという真実に気づいた時、人は本当の快楽を手にする。問題が解けたときの気持ちよさがそれからはずっと続き、生きていることにちゃんと意味を感じることができるようになる。
それぞれの細胞が地球という大きな大きな生命体を構成していて動かしている。そう、我々は何かに動かされているのではなく動かしているということ。生かされる前に生かし、生かすことは皆が1つであるということ。分裂しているだけで命という糸でつながった1つの塊であるのだ。そこに孤独などはない、憎しみや戦争もない。すべてがそこに終着するとき、宇宙という背景に巣立っていける日が来るのである。
人は悲しみに生きるのではない、息吹を宇宙に向かって放つ偉大なる星々の舟なのである。
あぁゴードン閣下。ランザエル大使。ヒルナンデス理事長。
人はその箱の中に大きな大河を宿す。柔らかな光が今愛の欠片に変わった。
共にゆこう。共に抱こう。遥かな宇宙の御空に望む。
それが太陽にさんざめく愛光のハラドキサ。エヴォリューション!サザメーション!イミテーション!
煌めく桜の王秋が、明日に架かる橋とみゆべし‥
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