臨死体験の体験談で感じた人生の意味「すべては秩序のもとに」

ひとりごと

交通事故で臨死体験をされたという、とある人の話をネットで観た。
私も、これまで生き物が生まれて死んでゆく意味を漠然と考えることは多々あったが、結局答えには辿り着けなかった。当たり前と言えば当たり前、死後のことは死んだ人にしかわからず、死んだ人が語ることはない…

その方は居眠り運転で大事故を起こし、奥様と次男さんは即死、両足を無くした自身と長男が生き残られたそうだ。

事故後の生死の狭間の中で光りに包まれ毛布にくるまる。

意識が遠のき、光の泡に包まれて毛布に抱かれる感覚の中で亡くなっているはずの奥様が綺麗な姿で「こっちに来てはいけない」と話したそうだ。奥様と一緒にいようと思えばそうできたのに、その言葉によって現実世界に戻る(傷だらけの自分の肉体に還る)という体験をしたという。「ここに来てはだめ、戻らねければいけないわ」と言われたそう。その時の感覚は倍増しているようで超越したように感じていたそう。それがどうしてかといえば生き残った息子様がいたからだということだ。「息子がその時になくなっていたら自分も戻ってきてはいないだろう」と言っている。その時に必要だったのは【戻りたい】と考えるだけだったそうだ。ボロボロの肉の塊に自ら還るという体験をしたそうだ。

脳が見せた夢かもしれない

ナイフで刺されたとき、人は痛みを感じないという。「熱かった」というひともいれば「暫く気づかなかった」という人もいる。なんでもそういう時には脳内モルヒネが多量に分泌されるのだそうだ。人が死ぬ瞬間にもこれが起こるため、癌で苦しい顔をしていた人も最期は安らかな顔になっているそうだ。勿論例外もあるだろうけれど。そういったことによって、ショックを感じたときには脳が自身にとって望ましい(救いのある)世界を見せているだけと考えることもできる。でも幻を見る事ができる、見たという記憶を持てるということは、それが確かに起こっているという可能性も十分にあり得ることではないかとおもう。

人生に意味があるなら

「天国に行こうとしたら奥様に突き返された」という話な訳だけれど、事故を起こして家族の半分が死に、自分はカタワになって生き残った子ども一人と生きることになった。こんな悲劇はない。最近ニュースで報道されていた、能登半島地震で妻と子供二人を失い、自分だけ生き残ってしまった旦那さまがいた。自分が旦那さまの立場だったらと思うと本当につらい気持ちになる。人生に意味があるというなら、生まれてすぐに、理由もわからぬまま死んだ子供をどう説明するのだと感じることがある。ただ、私が昔どこかで読んだ本にその理由が書いてあったと記憶している。それは「悲劇的に亡くなった人の意味はその周りの人(家族や恋人や友人)にショックを与え、そのショックによってその人々の精神に影響を与え成長させるため」とのこと。書くのが非常に下手だが意味はわかってもらえるかな。これを読んだときに私はほんの少し救われたような気がした。宗教や人生観を人に教わったときもソレだけ(悲劇的、残虐な殺人によって死を遂げる人の意味)が引っかかっていたからだ。でも今、これを書いていて思う。「そんな言葉で片づけていいのか?」と。人は自分が信じたくないもの、恐れているものにどうにか理由を持たせてむりやりに納得させるフシがあると思う。宗教だってきっとそうだろう。でもそれを意識すればまた苦しむことになる。この世は多くの人にとってあまりに悲劇的だから、生まれた意味、生きる意味が欲しくて仕方ないのだ。その意味が知りたくて生き続けるのが人間で、皮肉にもそれを知るのは死ぬときではないかと個人的には思っている。

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