新しい職場でいじめられて、ヒトの2面性を垣間見た。

ひとりごと

自分は今、生まれてはじめて人間関係で苦労している。これまでは幸か不幸か、職場の人とはいつでもうまくやってこれた。自分が若かったから、周囲の寛容さに助けられてきたのもあると感じるし、自分が割と過剰に他人に気を遣う性格だというのもあったと思う。

そんな自分も20代後半になり、これまでは「まだ若いから」と許されたことが許されない歳になってきたというのと、今回に限っては人に過剰に気を遣う自分の性格が逆に仇になってしまったとも感じる。「邪魔しちゃ悪い」と思いすぎるあまり話しかけられず、基本的には受け身。そんな自分の性格が「無愛想なスカした奴」扱いされてしまったみたい。そんなこともあるんですね。
とはいえ、確かに思い返せば生意気ととられる態度や発言をしてしまったかもしれないし、自分に非がないとも言い切れない。とも言いきれない。

なんにせよ、自分が周囲から向けられているのは「あからさまにそっけない態度」「無視」といったところ。
暴言を吐かれたり張りたおされたりするわけではないので実害はない。いっそ開き直って気にしなければ済む話とはいえ、それができるほどまだメンタルが強くないから困るのだ。

陰湿な国、わが国ニッポン

だいたい直接的な攻撃をしないのが、日本人のいじめの陰湿なところでもある。ちょっとそれっぽく日経ビジネスの記事を引用するよ...

日本では「仲間外れ」「無視」「陰口」といった暴力を伴わないいじめの割合が高い――。国立教育政策研究所(東京)などが、暴力犯罪が少ないスウェーデンと比較した調査から、こんな傾向がわかった。同研究所は、日本では仲間外れなどを大人が容認する空気があり、子どもに伝わっている可能性があるとみている。

「軽くぶつかる・たたく・蹴る」の暴力を伴ういじめの被害について、小6、中2の男女いずれもスウェーデンが日本を上回った。特に小6男子ではスウェーデン65.6%に対し、日本は32.8%だった(「今の学期で1、2回」から「週に数回」までの4段階を合わせた経験率)。

ところが、暴力を伴わない「仲間外れ・無視・陰口」の被害経験率は小6、中2の男女いずれも日本がスウェーデンより高かった。小6女子では4段階を合わせた割合が、スウェーデンで21.4%だったのに対し、日本では倍以上の43.4%。小6男子も同じ傾向だった。

日経ビジネスより引用 https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/200475/121600083/

日本では仲間外れなどを大人が容認する空気があり、子どもに伝わっている可能性がある
とあるけど、これはいじめの仕方を大人が子供に教えているということでもある。

暴力や暴言というあからさまな攻撃は罪になるから、「無視や仲間はずれ」という言い逃れのできる陰湿なものに変わってしまうというのも皮肉な話だ。あーとっても日本人らしいこと。
相手に気に食わない所があるなら一度本気で言い争ったり、男同士なら殴り合ってしまった方が、案外互いの気持ちがわかって仲良くなれる可能性も高い。あー日本人って嫌らしい奴ばっかりね。
関わりを避ければ溝は深まるばかりで一向に分かり合えなくなってしまうというのに。

トラブルを避けたいから本心を隠し、本心を隠すから永久に薄っぺらい関係しか結べないのが日本の社会の悲しいところ。子供の頃はよく喧嘩してよく言い争って、そしてゴメンねと言ってはわかりあえたものだ。

日本の小学生が受けるいじめを20代も後半になった自分がまさに今、職場で受けているというのもなんだか悲しい。
それも40、50を過ぎたジジイとババアにされているのである。自分の親世代に…
イイ歳しても子供じみたことをするオトナは、沢山いるというのを知ることができたのは意外と収穫なのかもしれない。し、そうじゃないかもしれない。

幸いにも学生時代はイジメに遭わなかったから、いじめられる被害者とは遠い存在だと思っていた自分も驕っていたかもしれない。「まさか自分が」と思うことを遅かれ早かれ経験するのが人生、ヒトの一生なのかもしれないね。

誰もが持つ強い攻撃性 穏やかに見える人ほど中身は悪魔かもしれないという恐怖


ちいさなコミュニティの中であからさまに嫌われてみてわかるのが、誰もが持つ強い攻撃性。正直人間不信が更に強くなった気がする。
いつも周りに優しい人たちが自分にだけはケダモノを見るような目を向け、不自然なくらいに冷たい態度を取ってくる。
他の人から母親のように慕われている穏やかな女性(ババア)が、自分にだけ拒絶的で軽蔑的な態度をとるのを目の当たりにすると、「人って怖いな」とシンプルに思う。天使のように穏やかに和かに振る舞っている人ほど、ソトヅラの良い人ほど内面は悪魔かもしれない。

集団の中で「共通の敵」が出来た途端、人はどこまでも残酷になれる。みんなと一緒に1つの存在を攻撃することが「正義」だと思えた時、それは最高の娯楽になる。ひとの悪口言ってる時が一番楽しいのは人の本能なのだ。誰かを攻撃したいという本能的な欲求が、もっともらしい理由を見つけた時にその姿を現す。集団で1人をコテンパンに攻撃するのは人間の性癖と言ってもいい。気に入らない人間を、多勢に無勢にした上で断罪する。これはなんの取り柄もない庶民のエンターテイメントで、こころの貧しい人間が一番興奮する幸せな瞬間であるのだろう。

こういう人間が自分の親世代の中にも沢山いるということを知ってしまったことは、哀しくもあるが勉強にもなった気がする。

結局みんな幸せではないから、不幸せの鬱憤を何かに向けたがる。

心が満たされていれば、人に攻撃的になることはない。どんな物事にも寛容になることができるし、困っている人や孤立している人を助けようとしたくなるもの。誰しも経験あることだと思うけど、何かにイライラしていて気持ちに余裕のないときには、人の他愛のない一言とか仕草にさえ苛立ちを覚えてしまうことがある。時に暴力に発展する場合もある。

人は心が満たされていないとき、幸せではないときに他者に対して攻撃的になってしまう傾向がある。「他人の不幸は蜜の味」というのも心が貧しい人間が抱く感情だ。心が満たされていない人は、溜まってしまったマイナスの感情(鬱憤)をなにかにぶつけたくて仕方がない状態になってしまう。

思い返せば、小学校や中学校でイジメに加担していた子の殆どは、家庭が荒れていたり、貧乏だったり、良い学校へ進学するために猛勉強に追われていたり、何かしらストレスを抱えていた子が多かったように思う。逆に人を虐めるなんて発想が元々存在していないような、お坊っちゃまとか自由に生きることができている子たちは、いつも穏やかでニコニコしていた。ような気がする。

そしていじめの対象になるのはいつも、そんなニコニコしていて幸せそうだった子たちだった。ような気がする。子供であれ大人であれ、心が貧しい人間は心が満たされていそうな人間を見つけては、僻んで羨んで、やがて目に見える形で憎悪をあらわにする。幼少期の時から変わらない、ヒトというものの恐ろしい一面は確実に存在していて、それが人生のことあるごとに呪いのように発現してしまうのだと思う。

ゆーて、いじめられる方にも要因がある

胸いっぱいの悲しみ

散々被害者面をして語ってきたけれど、自分にしっかりと非があるのも事実。
いろいろと反省して思い返してみれば、新参者にしては少々生意気で、協調性に欠けていたかもしれない。
まぁだとしてもこの仕打ちはあんまりだとは思うけれど。

自分が今までに覚えてきた常識、価値観、人間関係を良好にする術。正解だと確信してきたものの半分以上は今回の会社では通用しなかった。だからこういうものに正解はないことを知る、良い機会にはなったと思う。

いろいろな会社があり、そのなかに根付いてしまった文化みたいなものがある。そこに柔軟に合わせていかなければいけない。スライムのように自分をいろんな形に変化させて対応する術が、日本の社会には求められている。右へならえが大好きな国民性の証だ。

自分は合わせようとする努力をしてなかった。そもそも人と違うことをするのが大好きである。
会社にどんな文化が根付いてて、周りの人間がどんな人かもわからないうちから自分のキャラを通そうとする傲慢さが自分にはあったようにも思う。

やっぱり自分が悪かったのである。

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