察してもらおうとしても無駄。声を上げなきゃ誰も気付いてくれない

自分をわかって欲しい、助けて欲しいと思ったとき、口には出していないのに察してくれて助けてくれた人はいただろうか。少なくとも自分には居なかった。結局声を上げなければ誰も手を差し伸べてくれはしないと考えている。

察してもらえるのは子供のうちだけ

小さいうちは母親が自分の気持ちを察してくれた。お菓子売り場でやおもちゃ売り場で、欲しい物があったらそこに立ち尽くして欲しい物を眺めているだけで「コレがほしいのね」と察してくれた。買ってもらえるかは別の話だけれど。ある程度成長するとそうはいかない。親にとっての自分は特別な存在であるけれど、それ以外の大勢にとっての自分など、所詮どうでもいい存在でしかない。どれだけ仲良くなっても、愛し合っても、親と子のような損得の一切ない無条件の愛というものは永遠に享受できないと言ってもいい。「自分の子を守らなければならない」とプログラムされた本能的な愛や思いやりに勝るものはない。人は(とくに男は)第2の母親を、無条件に自分をわかって愛してくれる存在を探しがちだけれども、探し続けても見つからずに1度ら絶望する。本能である親からの愛以上のものを、その後の人生で貰うことはない。短期間ならありえるかもしれないが継続するものではない。だからこそ、子供時代に親からの愛情を十分に受けられなかった、愛で心が満たされたことがない人の殆どは心に問題を抱え続けてしまうのだろう。

人は親から貰った一生分の愛を死ぬまでやりくりする

自分が今生きていられるのは生まれてから暫くの、親からの愛があってこそ。人の優しさを感じられるのも、人の冷たさに傷つくのも、自分が誰かに思いやりがもてるのも、全てが親の愛を受け取ったからこそ感じられること。自らの生命と共に、親からは愛という内なる命を授かっている。それは第2の生命で、コレがなくなったら只の抜け殻になってしまう。それを切り売りして死ぬまでやっていくしかないのだ。それが枯れてしまったときは、ある意味では死を意味すると考える。親以外の他者から与えられる愛とは、親のソレとは別の、愛の上辺だけを構成するその場しのぎのものでしかない。別に私がマザコンだからではない。愛とはそれだけ特別で本能的で、逆に言えばありきたりで当たり前。でもそれが唯一無二であると今は断言できるから、こんな気持ち悪いことを書いている。

(中心に親からの愛。外側は他社からの愛)

愛は声を上げて求めなければ手に入らない。そしてそれはその場しのぎのもの。

人生とはある意味本当に哀しいものだ。求めれば求めるほどに、本当の愛なんて無いことに気がついてしまう。でも愛を求めない人生を送れば己を見失ってしまう。良くできているとも言えるし、冷酷で残酷とも言えるのが人の一生でもある。そして親から授かった真の愛にきづくには、悲しいかなそれ以上の愛がないと知るための「失望と絶望と孤独」を嫌というほど味合わなければならない。

親以外の他者から受け取る愛は有限であり、またその純度も低いもの。それによって救われることは多々あるが、いずれは孤独に戻ることになる。その孤独を味わうことが生きる意味であり、また親子の愛という絶対的なものに気づくことも生きる意味であると思う。パズルのピースがうまるように、孤独と絶望を抱え続けながら一定の境地に達した時に、人の生命は尽きるのだろう。

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