尾崎の中でも歌詞が暗くて絶望感に包まれている1曲。もし自分が中学生の頃にこの歌を聴いていたら無限リピートしていたに違いない、そんな楽曲である。要するに詩が超・厨二病的でもあるにも関わらず、大人になってから聴いてもそのダークな世界観に惹き込まれてしまう。
この歌に引き込まれるのは、彼の容姿が良いことにも関係していると思う。尾崎豊という人は非常に容姿端麗、だがいわゆる陽キャと言われるチャラチャラしたイケメンではなく、どことなく影があり、今にも消えてしまいそうな神秘的な要素を持ち合わせている。こういう男が「世界への絶望」を熱唱するから聞いている我々が魅了されるのだろう。おそらく槇原さんみたいな見た目の人がこの「闇の告白」を歌ってもそんなにカッコはつかない。槇原さんは槇原さんの歌を歌うからカッコがついて感動する。
ブ男だからこそ作品に味が生まれ安っぽくならないという場合も多々ある。容姿の良し悪し、才能の有る無しさえも「なるべくしてそうなっている」ということなのかもしれない。
1番の歌詞をヘコッと考える。
何ひとつ語れずに蹲る人々の、命が今日またひとつ街に奪われた
闇の告白/尾崎豊
何も言えずに竦む人の生命が街によって奪われる。社会に身を埋めると、自分の意見を持てなくなり、感情のない歯車になることはもはや死を意味しているということだろうか。浮かんでくるイメージとしてはスラム街を連想させるようでもある。
憎しみの中の愛に育まれながら、目覚めるとやがて人は大人と呼ばれる
闇の告白/尾崎豊
憎しみの中の愛とはどういう意味だろうか。性悪説、人の本性は悪であり他者への嫌悪や怒りに満ちていて、愛なんてそれが変性したものでしかない。愛、慈しみ、自己犠牲すらも形を変えた邪悪でしかなく。その邪悪なものに育まれたものは、仮に最初は神聖であっても徐々に邪悪になっていく。心に産まれた僅かな理性が、邪悪な魂を消してしまわなければいけないと警告しているようである。そのかすかな理性にしたがって己に終止符を打つ。ということだろうか。
微笑みも戸惑いも、意味を亡くしてゆく。心の中の言葉など、光さえ奪われる。
闇の告白/尾崎豊
邪悪という大きな塊が分裂しただけの我々に芽生える、感情という破片に意味など有りはしない。何か神聖な力が与えてくれたかもしれない理性という光の灯火も、大きな闇に翳ってしまう。
晩年の尾崎豊はキリスト教に傾倒している節がある。贖罪という曲があったり、お墓の石に刻まれている言葉であり、彼の最後のアルバムのキャッチフレーズにもなっている「生きること、それは日々を告白してゆくことだろう」。告白・罪・罰・贖罪というのは、きっと晩年の彼にとって頻繁に考えることだったのだと思う。
やはり色男が孤独を歌うとカッコが良い
色男に生まれれば人生勝ち組。何もかもがだいたい上手くいってしまう。本人にとっては苦労したつもりでも、物心ついたときから辛酸をガブ飲みし、事あるごとに災難が降り掛かるブ男の苦労に比べたらそれはもう綿菓子くらい軽い苦労。
なはずなのに、何故か物事を斜に構えてしまう性格ゆえにその楽しい人生に疑問を持ってしまい孤独を抱えてしまう色男も、居るには居る。それが尾崎豊なのだ。ブ男が「俺は孤独なんだぜベイベー」と言っても『それはそうだろうね、大変だね』で終わってしまう。気分を害すかもしれないがコレが実際のところ、人って本当にひどい奴らなんだ。孤独は色男が歌ってこそ意味がある。
自分がどれだけ孤独かを歌った尾崎と、孤独に向かって走れと歌った武田鉄矢
尾崎の言動や歌詞を見ていると「俺ってこんなに孤独を感じているんだぜ」「俺みたいな色男でも生きることに罪や罰を感じてるんだぜ、結構すげぇだろ。」とどこか悩める自分に酔っているようなナルシシズムを感じざるを得ない。もちろんそこが彼の魅力であるから良いのだけど。
一方武田鉄矢なんかは人生の本質が孤独だということをとっくのとうに分かっていて、だからこそ、そこに向かっていく勇気が今の我々には必要だと説いている。どっちが精神的に成熟しているかは言わずとも明らか。というかどうして武田鉄矢を比較に出したのか自分でもよくわからない。
しかし、これではなんだか尾崎豊への批判みたいになってしまったがそうなつもりはない。なにせ私の人格形成の三分の一くらいは尾崎豊でできているし、これからも彼の歌を聴き続けることに違いない。だけれども、今も一定数いる狂信的(盲目的)なファンのように、彼そのものを完全に神格化してしまうのはちょっと違う気がする。あまりにも多感で、抽象的なものを具現化する天才であったことは間違いないが、決して精神的に一般人よりも上の次元にいたわけではないはずだ。
でもそんな幼さや危うさが魅力のうち。そして顔がとんでもなく美形だったことが今もなお語り継がれる所以であると私は感じる。
個々の見てくれの良さや声、言葉を紡ぐ能力も全ては説得力に帰結する。「すごいヤツ」というのはそれぞれなにか圧倒的な説得力をもっているのだ。そういった物を持って生まれた人こそが「生まれるべくして生まれた者たち」なのかもしれない。
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