倒置法で話す左利き、早死にする左利き。「いちばん身近なマイノリティ」

左利き

話し方は倒置法、細かいミスも多い左利き

最近読んで感動しちゃった記事の話なんですけど。

https://www.fun-diary.com/2018/01/by-kameoka.html?m=1

↑ 左利きの考え方や特徴がわかりやすく端的に書いてあります。
もっとはやくこの記事に出会いたかった。自分はなんだか、この記文に救われた気がする。いや救われた。
これまでずっと考えていた「自分は発達障害かも」とか「自分は普通の人よりも劣っているかも」という感覚が、「まぁ向き不向きがあるのだろう」という考えに変わったのはこの記事のおかげ。

倒置法で喋るんだ、左利きは。

左利きの右脳思考の人は倒置法のような話し方をする特徴があるらしく

たとえば、
右利きの人が

「きのう雑誌に載ってたラーメン屋に行ってきたんだ」

これを左利きが言うと

「ラーメン屋行ってきたんだ きのう 雑誌に載ってたからさ」

という、英文のような話し方になるらしい。
よく考えたら自分もいつも倒置法な話し方をしている。

特に自分は話し方に悩んではいなかったけれど、左利きでこの話し方に悩んでいる人は意外と多いみたい。


少数派に生きる(右利き90%・左利き10%)

左利きは何かが少しだけ、大多数の右利きと比べるとズレていたり変わっていたりする。
これはやはり右脳優位ということに原因があるわけだ。

現代社会では他人と少しでもズレていることが蔑視や差別の対象になりうる。。
だからズレていること自体は構わないのだけれど、右利き社会の中ではそれを隠してズレていないフリをするスキルも必要になる。まぁいつもそんなふうに生きてきた器用な左利きには難しいことではないけど、常にストレスはかかる。

最近耳にするダイバーシティ(たよーせー)なんていうのは口先だけで、少数派への差別意識というのは絶対に無くならない。学校でのいじめが永遠に無くならないのと一緒。「太ってる」とか「顔がむかつく」とか「話し方が変」なんていう理由で、みんなで1人を徹底的に無視したり、トイレで上からバケツの水をぶっかけたりするのだ。

いじめの対象になってしまう要因は全体の中で「少数派」になってしまうことにあるのだと思う。太っているということも顔が不細工だということも、「平均」、「普通」というところから比べると外れていて少数派になる。

言い争いでもそう。自分の意見が「少数派」だった場合には、そうでない「多数派」と議論になった時に「間違い」だと否定され負けてしまう。多勢に無勢では勝ち目はない。常に多数派の意見が優先されるのが今の社会。民主主義の闇である。

なんだか話が変わってしまった気がするゾ

「直感的だがミス多し」な左利き

「左利きの右脳思考」は直感的に素早く行動に移せるのは利点な反面、細かいミスが多く論理的思考に乏しいらしい。これは自分の過去の出来事を振り返ると大いに頷ける部分ではある。
そして反対に「右利きの左脳思考」は、まず物事を順序立てて考えてから実行に移すから、行動までに時間はかかるがミスは少ないらしい。たしかに身の周りにいる「右利き左脳タイプ」と思われる人達は多方がそんな人だとも感じる。

少数派の左利きにとって、こうした特徴の違いは自分が身を置く環境(職場や家庭)によって「とても優秀な人」になれるチャンスと、「無能な人」になってしまうリスクがあるように感じる。
場所に恵まれれば「君は天才だ、すごいね!」と言ってもらえる可能性がある反面、場所を間違えると「ものわかりが悪くて使えない」と評されてしまうのではないかと。

そういう意味では、学生時代なんかに行う【自己分析】というやつで、自分の長所と短所を明確に洗い出せればいいのだけれど、ハタチそこそこの人生経験の浅い頭では、それはとても難しいことのように思う。少なくとも当時の自分には絶対にそんな事はできなかった。個人的には自己分析なんか若い時にはしない方が良いと思う。まだロクな経験もしていないうちに、下手に自分を知った気になってしまうと、本来の自分の持っている可能性を潰すような気がしてなりません。


合理的な人より、情緒的な人でいたい。(クールより3枚目)


本当は一人一人の意見や考えが尊重され、それぞれが心地良いと思える居場所を創り上げていくことが理想ではある。
でもどうせそんなの理想どまり。合理的に考えるなら、「多数派にとって心地良い環境をつくり、少数派は馬鹿だから放っておけ(極端に言えば殺してしまえ)」という結論になる。少数派に勝ち目はないのだ。
合理的と言えば、今の若者は淡々と合理的に物事を考え、情がない方がクールでカッコいいと思っている節があるように感じる。どこかの掲示板やYOUTUBERか何かに影響されてるのかもしれない。

人間社会では味方が多くいる方が勝ちで、少ない方が負け。味方が多ければ正しいとされ、少なければ間違いとなる。
でもそれはそれで別にいいのだろう。マイナーはマイナーでも数は少ないが味方になってくれる人間は必ずいる。
表の人間社会では勝てなくても、正しいと思われなくても、本当にわかり会える相手と傷の舐め合いでもして愉しめばいい。

結局誰かと議論して自分の考えと同じ者を探して共感して喜ぶのが人間というもので。
正解なんて本当のところはどうでもいいことで、自分の味方がいるという実感が欲しいだけであり、同じ気持ちを持った人間を見つけて孤独を埋めたいだけなのかもしれない。


気づきを得るのは孤独でいるとき。


でもそうしているうちはきっと何も知れない。人生の意味なんて考えることすらない。

ひとりきりで考える時間を痛いほど、死んでしまいたいほど味わってみて初めて人は成長するものだと思う、私は。
独りになりたくないのに独りになる、それを誰かに助けて欲しいと心の中で叫んでいるうちは、誰も助けてはくれない。声をあげて叫ばなければ結局誰も気づいてくれないのだ。

そんな時間をイヤというほど、無間地獄かと思うほど味わってみてはじめて知れるものがあり感じるものがある。今の若者たちは特にそこから逃げすぎではないかと思う。いつでも誰とでも繋がれる環境に依存しすぎるていると、一番大切な孤独の大切さを知れる機会を損失してしまう。

だからどうというわけではないけれど、これからは誰も言いたいことを言えなくなったこんな世の中で、どう生きるべきかが試されている。自分で作ったポイズンを自分で呑んで自滅しているのが現代の若者だ。

こんなことを常に考えているのが左利きなの。
「変わってるね」と言われているのも納得だ。

論理的に正解をだせる左脳タイプとは違い、普通の人なら気にもとめないような些細なことを考えすぎて、具合が悪くなっちゃうのが左利き右脳タイプなのでした。

なんにせよ、左利きに限らずマイノリティの生き辛さというのは、おそらくこれからも無くなることはない。でも自分と違う考えの人が居るかもしれないと、ぜひ一度立ち止まって考えられる人が一人でも増えていけば、良い世の中に近づくのになと思ってしまいますね。



答えは自分で探すものです

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