尾崎が収監中に書いたとされている名曲。また、生涯で唯一テレビに出た「夜のヒットスタジオ」にて歌われた楽曲でもある。
ニューヨークで薬を覚えてしまったり、結婚があったり。様々なことに葛藤し孤独を抱えながら、早すぎる成熟を迎えた彼の、一つの境地を感じさせるような作品です。
昨夜眠れずに戦ったもの
失望
歌は、「昨夜眠れずに失望と戦った」から始まります。
そして「君が悲しく見える、街が悲しいから」と続きます。
失望の意味を改めて辞書で引くと『望みを失うこと・あてがはずれてがっかりすること』。
善であると思っていたものが悪であった。真実だと思っていたものが偽りだった。信用できると思った人に裏切られた。色々な人に出会って信じて裏切られる経験を、必ず人は何度も経験します。それにどれくらい傷つくかで、それぞれの人格形成がされてゆくのだと思います。おそらく尾崎豊は他人の些細な裏切りや、人のちょっとした冷たい態度に人一倍傷つくタイプだった。失望することが多かった。だから晩年は猜疑心の塊になってしまったのだと思います。お金のあるところに悪い人達は群がりますから、十代の純粋だった彼は大人に騙され、大人の汚さをたくさん見てしまい、失望していったのだと思います。汚れた社会に生きるということ。愛しい人も自分自身も、そういった汚れから逃れられずに心はよごれていく。それがむなしい、けれどどうすることもできない、というもどかしさをも歌詞から感じます。意味はどうであれ「君が悲しく見える、街が悲しいから」という言葉の表現は切なくも美しいです。
欲望
「昨夜一晩中欲望と戦った、君を包むものすべてが僕を壊すから」君を包むもの、それは先程の自分が失望している大人たち、この社会ということでしょう。君を包むもの(社会)は、僕を傷つけてくる。この曲は勾留中に書いたと言われているので、欲望というのは薬の離脱症状のことかもしれませんが、人の持つあらゆる欲ともとれます。何かを自分の物にしたいとか、憎い相手を傷つけてやりたいだとか。常に色々な欲望を抱き、時には欲望に従い、時には欲望を制して人は生きていますから、そういった本能と理性の葛藤を言っているかもしれません。
絶望
僕はただ、清らかな愛を信じている。という直前の「絶望と戦った」。失望と戦い、欲望と戦い、疲れ果てて「もうどうでもいい」と諦めれば全てを失くしそう。そんな恐怖と対峙することで結局微かな希望を持つことができているのです。というより自分に言い聞かせるかのようです。嘘偽りに怯えてきたけれど、どこかには「清らかな心」が存在するはずだ。存在していてほしいという思い。それが彼を戦わせるのです。
誰にもわかってもらえず、孤独の渦中に居るなら
誰も手を差し伸べずなにかに怯えるなら自由平和そして愛をなにでしめすのか
基本的に人は自分自身にしか関心がない。だから人からの優しさや思いやりや愛を渇望しても孤独に陥るだけだ。人のちょっとした冷たさや裏切りに深く傷ついてしまうような人はやがて人間不信に陥ってしまう。そしてそこから徐々に「まぁそんなもんか」と思えるようになり、歳をとるに連れてある意味「諦め」を覚えながら、人を信じることができるようになっていく。自由や平和というと大分大事に聞こえてしまうが、人のささいな優しさを望んでいるだけの歌詞だと思う。究極的には些細な思いやりが紡がれて、世界平和につながっていくのは事実。困った人を見て見ぬ振りせず、手を差し伸べようという気持ちが繋がっていけば本来争いなど起こらない。
ただ清らかな愛を信じている
尾崎は「本当の愛」とか「偽りなき愛」とか「本物の愛」とか…見返りを求めない究極の愛を、言い換えながら何度も歌っている。この唄の「清らかな愛」というのもほぼ同じ意味だと思っていいはず。母が子に与えるような損得勘定の一切ない愛、そういったものを彼は渇望していた。そして最期までそういった愛には出会えなかったのだろうとも思う。けれど、出会えなくとも信じることはできる。目の前にはなくとも、「それは確実に存在するはずだ」と願うことはできる。これが哲学や宗教なわけだけれど、信じることで救われる人がいるのも事実だ。
自分もほんの少し前までは、本当の愛みたいなものを欲したり、少しでも見返りを望んでいるような優しさに心底嫌悪したりしていた。心理学や哲学書を図書館で漁っていた。自分の場合はやや遅飼ったけど(20代後半)、だいたい20代前半くらいの頃に男の子はこういうことを考えてしまうのではなかろうか(笑)。生まれた意味、生きる意味に苦悩するのは男の子なら所詮だれもが通る道なのである。そして男はほんのちょっとだけ成長するのだ。ほんのちょっとだけ。
いくつかの音源の中で
この歌は当時のCD音源、2009年リマスター版、LIVE-CORE(東京ドームライブ)、そして最近発売されたCDに入っているバースツアー途中のメルパルクホール広島バージョンの4種類がある。間違ってたらごめんなさい。個人的にはこの歌はライブバージョンが好きである。どこの公演versionもキレイに歌えているし、CD音源よりも伝わってくるものが多くある。そしてまた個人的には東京ドームのversionを贔屓目に見てしまう。というのもこの時は太陽の破片をリリースして間もないのもあるし、このライブの尾崎の顔が1番お気に入りというのがある。なにせ尾崎豊はその時時で別人のように顔や声や歌い方が変わるから。どれをとっても味があって素晴らしいのだけれど、こと太陽の破片と僕が僕であるためにに限ってはこの東京ドームが特に好きだ。こんなに目がキラキラして愛くるしく見えるのは後にも先にもこのときくらいじゃないだろうか。なんにせよ、結局見た目というのは重要だ。東京ドームでは証明が真下から入って尾崎の顔を照らしている。真下から光を当てられても神々しく見えるのは尾崎豊と福山雅治だけだと私は確信している。普通、下から光を当てるとほとんどの人は通常より不細工に映る。それなのに神々しく見えるほど綺麗なのは彼の生まれ持った顔立ちの良さ、要はするに、なるべくして尾崎豊になった者ということなのだと感じざるを得ません。
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