シェリーは甘えんぼうな男の夢、すなわち母性である。【尾崎豊】

シェリー/尾崎豊 ozaki
いくつになっても甘えん坊で、第2の母親を求めて彷徨い続けているのが男というものである。

これは寂しがりやで、かまってちゃんな尾崎豊が、同じく寂しがりやでかまってちゃんな男たち全員を代表して、そのチルディッシュさをクーリッシュさに無理やり昇華させたソングである。いつまで経っても男の子で、馬鹿で幼稚で憐れな男の姿さえ、イケメンが歌えばカッコがついてしまうのだ。やっぱり顔って大事!        でも今回は顔の良し悪しの話ではない。

転がり続けてこんなとこにたどり着いた、あの頃は夢だった。

無邪気に友達と笑い合い、恋人に自慢げに野望を語り、自信に満ち溢れていたあの頃はまさしく「夢」だった。夢を追いかけるにも金がいる。今を生きるためには、夢は後回しにするしかない。気づけば「絶対になるもんか」と嘲っていた社会の歯車に、見事になってしまっている自分。

社会の荒波は想像以上に強くて冷たくて、踏ん張りもきかずに飲み込まれ、気づけばどこだかわからないところにいる自分。
「何をしてるのだろうか」「どこに向かうのだろうか」。
漠然とした不安が毎日襲ってきては心を擦り減らす。

優しく俺を叱ってくれ、つよく抱きしめておくれ。

こんな情けない “俺” を叱ってほしい、そして肯定してほしい。
周りには「あなたなら大丈夫」「心配することないよ」「応援してるよ」と、優しい言葉をかけてくれる人はいる。でも自分を叱ってくれるほど優しい人はそうそう居ない。叱るとは、この上ない優しさでもあるのだ。

男はやさしいお叱りを欲している(あくまで優しいお叱りを♡)。そしてその後で、強く抱きしめてほしい。そう、結局いつまでも母親の姿を探している。なんとも情けない、でもそれがオトコなのだ。

俺は歌う、愛すべきものすべてに。

サビ。
「愛すものすべて」や「愛するすべて」ではなくて「愛すべきものすべて」なのは、「愛すべきでないもの」もあると言っているようにも聴こえる。愛すべき対象は「誰」ということではなく、人の心に宿る「感情」とか「いのち」のことかもしれない。逆に愛すべきでないのは人の心の中にあるネガティブな感情(妬み、憎しみ、恨み)のことかもしれない。愛すべきはひとのポジティブな感情(真心、優しさ、博愛)。誰もが宿している優しい心に向かって彼は歌いたかったのではないか。相手に別け隔てなく、常に優しくありたい。そして相手にも優しくあってほしい。最後まで「偽りなき愛」「本物の愛」を訴えつづけた彼の、偽りなき愛とは何かを、抽象的にもこの曲で既に訴えているようにも感じる。

うまく歌えているか、うまく笑えているか、卑屈じゃないかい、誤解されてはいないかい・・・・

2番目のサビの後、『シェリー』に対して「大丈夫かな?笑われてないかな?間違ってないかな?」と母親に不安を吐露する男の子のように、9つの弱音を吐く。
直前の歌詞で「俺は負け犬なんかじゃない」「真実へと歩いてゆく」と威勢よく宣言したのも束の間、そのすぐあとに「俺は誤解されてはいないかい?」「真実へと歩いてるかい?」と、すぐさま自信をなくしている。

ズッコケてしまうが、やっぱりこれがオトコというもの。どんなときでも虚勢を張っているだけなのである。いくつになっても男というのは本当は自信がない。自分が間違ってないか、ホントはこわくて仕方ない。あとレディにフラれるのもこわい。こわいものだらけ。

だから母性という無償の愛を渇求している。悲しいことがあったらやさしく慰めてほしいし、膝の上でナデナデしてほしいし、何時間も優しく微笑みかけていてほしい。けれどそんなことをしてくれたのは母親だけだ。母親のもとを離れた男達は、まだまだ甘えたい気持ちをなくせないままに、社会にほっぽりだされて荒波に揉まれて、傷だらけになりながら強い男を精一杯装って生きている。
辛酸を舐め、苦汁をがぶ飲みし、心も体も傷だらけになった仕事終わりの男が、空を見上げて空想する理想の女性像が大体シェリーなのである。

しかしこの9つの弱音のセリフ、頻繁に歌詞を間違える尾崎豊なのにライブで間違えているのを見たことがない。晩年の曲「永遠の胸」では3通りしかないサビを毎回のように間違ってたのに。
普通9つも言うことがあると、順番を間違えたり忘れたりすることも思うんだけど、シェリーのこの部分に関してはいつも完璧にうたっているというのは、彼の頭の中の「シェリー像」みたいな存在がいつも変わらないものだったからじゃないだろうか。
このセリフを唄う尾崎の眼前にはいつも「シェリー」が映っていたのではないかと思う。

いや、それはないんじゃないかなとも思う。

いつになれば這い上がれるだろう、どこにゆけば辿り着けるだろう。

「這い上がる先がわからない」、「辿り着く先もわからない」、自分を見失いかけてギリギリの精神状態にある。怖くて怖くてたまらないから、シェリーという偶像にすがりながら自分を失わぬようにと精一杯に立っている。


シェリーは母性

このシェリーという存在については、彼女なのか母親なのか神様なのか、さまざまな考察が沢山されているよう。誰なのかって考えるより、聴く本人一人ひとりが感じたものがシェリーだ。と言ったら話が終わってしまう。
やっぱり個人的には全ての女性の内にある(と思いたい)「母性」そのものだろう。母性というのは男にとっては神様であり、海であり、宇宙である。 すべての男を代表して、尾崎豊はこの「シェリー」という歌に乗せて男の本心、弱音をさらけ出してくれている。昔誰かに聞いた言葉だけど、男は自分で歳がとれないという。女は自分で歳をとることができるという。男は何歳になっても成熟せず、仔犬のように甘えたくてしょうがない生き物である。そんな哀れでダサくて、けれどもちょっぴり可愛い男達のありのままの姿を、彼は正直に、そして正確に語っている。

尾崎豊に関する著書で、「尾崎豊の歌詞論」という、最近出された本に興味があった。「永遠の胸」や「十七歳の地図」等の歌詞を読み解き深掘りし、歌詞に込められたすべてを解読しようとするもの。
読解力と国語力のバケモノみたいな人が、普通の人なら聴き流してしまいそうなところや、難解な歌詞の意味まで深ーく深ーく考察していて目から鱗が落ちること間違いなしだ。買ってみたけど、うーん「俺のとは違うなぁ」となって殆ど読んでいない。


結局その歌を聴いた本人がどう感じるか、それが全てなのだということ。映画評論もそうだけれど、難しい言葉を並べてどこが良いとか悪いとか後から指摘することは簡単でありナンセンス。後出しでゴニョゴニョ言うよりも、最初に感じたフィーリングこそ一番大切なんじゃないかな。作品に点数をつける権利なんて、ホントは何処の誰にもないってこと。

2000回聴いた人生のバイブル曲、「永遠の胸」(えいえんのむね)。
Ozaki 永遠の胸アナザー「LAST TOUR AROUND JAPANより」
尾崎豊「優しい陽射し」のあたたかい世界観。人生の答えを育んでいく
卒業

コメント

  1. 服部 久 より:

    妻が亡くなった時によく唄った歌です。母性に憧れてたのかな?
    今でも曲を聴くと涙が出ます。

    • 桜田 ビアンコ より:

      コメントありがとうございます。返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
      奥様を亡くされてお辛かったと思います、大変な経験をされたのですね。
      私にはまだ大切な人を亡くす経験をしていないので、知ったふうなことを書いてしまったら大変失礼になってしまいます。
      ただ、服部様がこれからも幸せに生きていけることを祈っております。

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